書く理由は存在を証すため|HWM#01

ハッピーライティングマラソン#1 あなたはなぜ文章を書くのですか? Diary

「あなたはなぜ文章を書くのですか?」

答えはきっと「存在証明」のため。

初めて見たとき、この質問は妙に重く感じた。
なぜなら、「なぜ生きているのですか?」というなかなか重い問いに近い響きを受けてしまったのかもしれません。

20代の頃、知人に勧められて本田健さんの著書を何冊か手に取りました。
私にとって「セミリタイア」という言葉を初めて意識させてくれたのも、本田さんの本です。

セミリタイアにはまだ手が届きませんが、今も憧れの存在のひとり。


そんな本田健さんが、このたび企画されたのが「ハッピーライティングマラソン」。
ご縁を感じて、私も参加することにしました。


なんとなくエントリーしてみたものの、結局、書かないまま日々が過ぎましたが、(こういうこと、本当に多い)せっかくなので書き始めようと思います。(前置きが長いのはご愛嬌)

書くことで存在を証明する

私が文章を書くのは、「わたし」という存在を証すため。
対面で話す機会が極めて少なく、直接やりとりできる相手がほとんどいないからこそ、言葉で自分を知ってもらいたい――おそらくは、それが根っこにあるんじゃないかな。

「よくわからない人」と言われたことがある。一度や二度ではない。
そして、我ながら笑えるようで笑えないことだが、少しショックを受けつつも「まあそうだろうな」とどこか納得してしまう不思議な部分もあったのです。

話すことから遠ざかり、「書く」ことへ向かった理由

ロスジェネ世代の「根無草」として

私はロスジェネど真ん中世代。
だからというわけではないけれど、御多分に洩れずの「根無草」。

少なくとも5年以上どこかに属した記憶はない。

口から生まれた子ども

子どもの頃は、父に「お前は口から生まれてきたのか」と嫌味ったらしく言われるほど、よく喋る「おませで、おきゃん」な女の子だった。

今考えれば「ちょっと待て」と言いたくなるレベルの話も多かったと思う。

「人の口に戸は立てられない」というが、ならば、子どもの口は「枠(わく)(=引っかかるところ)」がないんじゃないだろうか。

それは、私個人の特性というよりも、人間の純粋な表現欲のカタチかもしれないし、そうであってほしいと願っている部分でもある。

「話さない」ことで学んだ沈黙と距離感

年齢を重ねるにつれ、「それではいけない」と思うようになった。

「求められなければ話さない」よう心がけ、派遣社員として年を重ねる中で、「守秘義務」や「沈黙は金」という言葉の意味を、実感をもって学んでいった。

たとえば、「何かありますか」と聞かれても、馬鹿正直に意見を述べるのはよろしくない。
「特にありません。ありがとうございました」という定型文こそが“正解”になる場面が多かった。


求められているのは、形式と結果だけ。

そんなやりとりが続くと、心は少しずつ、確かにひしゃげていく。

SNSでは「書くこと」さえも難しくなった

プライベートでも似たような疎外感はある。

独断と偏見で言いきるならば、人は誰しも自分のことで精一杯だ。
見返り(注:金銭に限らず)もなく、他人にエネルギーを割ける人は、そう多くない。

もちろん私も例外ではない。

そして、かつては壁打ちや身内同士の「つぶやく」ための場だったTwitter(X)は、ここ数年でもはや気軽に言葉を置ける場所ではなくなった。
アルゴリズムの影響か、タイムラインは時間の流れを失い、以前のようにフォロワーの言葉が自然に届くことが減った。

もはや、親しいフォロワーの投稿でさえ、探しにいかなければ見つけられない。
私の言葉も、きっと同じように埋もれているのだろう。

フローからストックへ:「書く」場所としてのブログ

フロー型のSNSでは、呟きは砂粒のように流れ去る。
底なし沼に石を投げるような、跡形もない感覚。
それは時に、透明人間になったような虚しさをもたらしている。

だからこそ、「書いて残す」ことに意味を見出した。
ネットの片隅にストックしておけば、いつか誰かが、その人のタイミングで見つけてくれるかもしれない。

「書く」ことでつながる未来へ

きっかけは、きっとそこらじゅうに落ちている。

私が書き散らした“徒然”の文章が、どこかで誰かとの縁につながり、良い“円”を広げていけば嬉しい。
そして、欲を言うなら、それがいずれ収入にもつながれば、正直もっと嬉しい。

だから、私はブログもnoteも使って、「書く」ことを続けているんだと思う。

結局それが、私にとっての存在証明なのではないかな。

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