20代の頃、知人に勧められて本田健さんの著書を何冊か手に取りました。
私にとって「セミリタイア」という言葉を初めて意識させてくれたのも、本田さんの本です。
セミリタイアにはまだ手が届きませんが、今も憧れの存在のひとり。
そんな本田健さんが、このたび企画されたのが「ハッピーライティングマラソン」。
ご縁を感じて、私も参加することにしました。
なんとなくエントリーしてみたものの、結局、書かないまま日々が過ぎましたが、(こういうこと、本当に多い)せっかくなので書き始めようと思います。(前置きが長いのはご愛嬌)
「あなたはなぜ文章を書くのですか?」
初めて見たとき、この質問は妙に重く感じた。
私にとっては、もしかすると「なぜ生きているのですか?」に近い響きがあったのかもしれません。
答えは、きっと「存在証明」。
私が文章を書くのは、「わたし」という存在を証すため。
対面で話す機会が極めて少なく、直接やりとりできる相手がほとんどいないからこそ、言葉で自分を知ってもらいたい――おそらくは、それが根っこにあるんじゃないかな。
「よくわからない人」と言われたことがある。一度や二度ではない。
笑えるようで笑えないが、少しショックを受けつつも、「まあそうだろう」とどこか納得してしまう不思議があった。
私はロスジェネど真ん中世代。
だからというわけではないけれど、御多分に洩れずの「根無草」。少なくとも5年以上どこかに属した記憶はない。
子どもの頃、父に「お前は口から生まれてきたのか」と嫌味ったらしく言われるほど、よく喋った「おませで、おきゃん」な女の子。
今考えれば「ちょっと待て」と言いたくなるレベルの話もよくした。
「人の口に戸は立てられない」というが、ならば、子どもの口は「枠(=引っかかるところがない)」なんじゃないだろうか。…私個人の特性じゃなければ。
それはさておき、やがて年齢とともに「それではいけない」と感じ始め、「求められなければ話さない」よう心がけるようになった。(できているかは別として)
さらに派遣社員として年を重ねる中で、「守秘義務」や「沈黙は金」という言葉を、実感をもって学んでいった。
たとえば「何かありますか」と聞かれても、馬鹿正直に所感を述べるのはよろしくない。
「特にありません。ありがとうございました」という定型文こそが“正解”になる場面は多い。
求められているのは、形式と結果だけ――そう感じることが何度もあった。
けれど、そんなやりとりを続けていると、心は少しずつ、確かにひしゃげていく。
プライベートでも似たような場面はある。
独断と偏見で言えば、人は自分のことで精一杯だ。
見返り(お金に限らず)もなく他人にエネルギーを割ける人は、そう多くない。私もそうだ。
一方で、Twitter(X)は「つぶやく」場所ではなくなった。
アルゴリズムの影響か、タイムラインは時間の流れではなくなり、以前のように気軽にフォロワーの言葉が流れてくることは減った。
私の言葉も、きっと同じように埋もれているのだろう。
フロー型のSNSでは、呟きは砂粒のように流れ去る。
底なし沼に石を投げるような、跡形もない感覚。
それは時に、透明人間になったような虚しさをもたらしている。
だからこそ、言葉をカタチにして残したいという気持ちが強くなったのかもしれない。
ネットの片隅にストックしておけば、いつか誰かが、その人のタイミングで見つけてくれるかもしれない。
きっかけは、きっとそこらじゅうに落ちている。
私が書き散らした“徒然”の文章が、どこかで誰かとの縁につながり、良い“円”を広げていけば嬉しい。
それがいずれ収入にもつながれば、正直もっと嬉しい。
だから私は、ブログもnoteも使って、「書く」ことを続けている。
それが、私にとっての存在証明なんだと思います。
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